新型コロナで思うこと

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一を聞いて十を知る…新型コロナで思うこと~

「一を聞いて十を知る」という言葉があります。
私は「それまで九を知っていたが、最後に一を知ったから、併せて十になってやっと使える智恵になった」ということではないかと思っています。
今、新型コロナで世界中とんでもないことになっています。幸い、日本は5月末の時点では、医療体制の破滅まではいかずに済み、緊急事態宣言の解除を迎えることが出来ました。
しかし、その解除の直ぐ後で北九州市では、「早くも第2波が来た」という事態です。
また、宣言解除後の神奈川県でも、営業再開にあたって「2メートルあける」などの今後の営業におけるガイドラインが出されました。
しかし、その通りに行うと、例えば、あるライブハウスでは、「本来150人は入れるものが、7人の客しか入れない」ことになるというネットの話題が出ていました。当然、営業は成り立ちません。
このように、営業再開しても、施設費等を賄う十分な収益が見込めるかというと、厳しいところがほとんどになってしまうのではないかと危惧します。
「では、ネットの配信を充実すればよい、飲食店なら弁当・宅配に主力をおけばいい」などとなるでしょうが、それが長期安定継続するビジネスモデルになるでしょうか?
また、会社員のテレワークについても考えてみます。
ある人が学校を卒業して、いよいよ会社員として社会に出ました。しかし、入社式もネット、配属された部にも、ネットでメンバーに挨拶、先輩からの仕事のやり方の指導もネット、
取引先ともやり取りもネット、そして、数年後、配置換えで他の部に配属してからも、同じくすべてネット。
そのような日々から月日が経ち、めでたく定年を迎えました。すべて、自分の部屋の中で会社員生活を送りました。
私はこれを書いていて「邯鄲の夢(かんたんのゆめ)」という故事が浮かびました。
もちろんこれは極端ですが、いずれにせよ、リモートワークはかなり限定的なものになると思います。
このままですと、治療薬・ワクチンが出来ない限り、このようなことが推奨される状態が続き、のびのびと経済活動に勤しむことが出来ません。
誰でもわかることですが、政府等による金銭等による援助にしても、際限なくということは無理でしょう。
最近では、「ウィズコロナ」という言葉も現れてきており、要は「コロナの危険と隣り合わせの社会を覚悟せよ」ということでしょう。
では、治療薬・ワクチン完成までは、経済が崩壊していくのを座視するしかないのでしょうか?
私は、一つの案として思うのは、日本全国のどこか、例えば、北九州市の全員に検査を実施し、限定的ではあるが、社会全体のデータを入手し、感染経路の分析を行い、有効な感染爆発予防法を確立を目指す、ということです。
そうすれば、必要最低限度の制限で済むようになることになるのではないか。その制限の枠外のものは、のびのびと経済活動等を行ってもよいということになるのではないか。
現在のコロナ対策は、いわば、「基本の教科書を全く読まず、過去問の解説のみ読んで資格試験に受かろうとするもの」に思えるのです。「スペイン風邪」などの「過去問」で本試験に臨んでいるようなものです。
全体像も分からないまま、限定された一部の知識だけで対処しているということです。たまたま、五枝択一の試験で、「多分これかも」と自信がないが、とりあえず、選んだものが運よく正解だった。
でも、次の2次試験でも、ラッキーが続くでしょうか?
結局、神ならぬ人間には、この世のすべての現象は、なぜそのようになるのかを知ることができない以上、多くの結果を集めて、「どうやらこのような法則になっているようだ」と
確認するしかありません。
冒頭に、「一を聞いて十を知る」と書きましたが、ある社会の多数のデータ(つまり、十のうち九)がなければ、一のみを知っても、対策に確信を持てないのではないでしょうか?
「洞察力」という言葉がありますが、これとて、新たな「一」の知識と、それまで得た百ある知識の中から「九」を選び出し、これらを結び付ける力だと思います。
以上は、素人であり、一市民である私の勝手な意見です。